講談最前線(補)~宝井梅湯『藪原検校』を振り返って

※以下は墨亭で全6回・12編で開催した「宝井梅湯『藪原検校』を読む」のパンフに掲載したものを再構成した文章です。

 墨亭で開いていた宝井梅湯による『藪原検校』連続読みの会が、2022年2月の会で大団円を迎えた。

 小演目を挙げると、①杉の市殺し ②杉の市勘当 ③近江屋殺し ④仙台屋喜兵衛 ⑤二代目藪原検校 ⑥浅草海苔騒動 ⑦孝女の受難 ⑧孝女二度目の受難 ⑨毒酒試し ⑩検校召し捕り。

 後に二代目藪原検校となる杉の市の誕生と、その杉の市が悪事に手を染め始める初回では、悪の本領が発揮されないままに終わったので、その後の展開がどうなるのかとハラハラとさせられた。だが、悪人伝はどれだけいさぎよく悪事を行なえるかどうかといった、その言動と姿に聴き手が左右される点に面白さがあり、それにはまた、読み手の迫力も必要である訳で、梅湯さんは読みに入った途端に、悪人のオーラを背負う点がまず良かった。読み手として、物語の全体像をつかんでいるのは言わずもがなで、登場人物、特に主人公の心理が腹に落ちているからこその描写力が、今回の『藪原検校』には活きていた。

 そして、殺しの場面がどう読まれるのかといった楽しみとともに、梅湯さんの鬼気迫る読みの昂ぶりを期待しているとしたら、不謹慎に聞こえるかも知れないが、悪人ワールドと梅湯ワールドをともに感じたいと思うのも悪人物を聴く醍醐味の一つであるだけに、会を重ねる度にその期待が高まっていったのである。

 宝井梅湯の漢たる姿が好きであるというのは、拙著『講談最前線』(彩流社)でも記した通りだ。

 その姿は孤高というのではなく、無駄なことは言わず、自分の伝えたいことは本題でわかるはずだと言わんばかりの、一本筋の通った高座姿がいい。緊張と緩和の関係ではないが、だからこそ、ちょっとその道から外れた時に見せる、笑顔ほころぶ様子にホッとさせられてしまう。

 例えばこんなことがあった。今、取り組んでいる『宋朝水滸伝』の自作のステッカーと巾着を墨亭の高座で宣伝して見せたことがあったが、「グッズなんて使い道を考えてはいけないのですよ」と言った時に見せた、無邪気とも言える笑顔が良かったのだ(笑)。

 ところが『藪原検校』の世界に入ってしまえば、悪の世界を的確な言葉でなぞり、聴いている者を登場人物の心理状態へと誘っていく。そして全くと言っていいほど悪びれていない主人公が時にニヤリと見せる表情。そんなギャップがたまらなかった。悪の姿を深く突き進んでいくべき悪の世界へドップリと浸かっていく様を的確にみせるのがまた、梅湯ワールドであることは間違いなかった。

 『藪原検校』という作品を考える時に、常に小説の題材の一つにある「ピカレスク」を考えてきた。日本語に簡潔に訳すとすれば、「悪漢を主人公とし、その性格や犯行を叙述した小説」になろうか。一見すると、梅湯が読む『藪原検校』はピカレスク物の一つと言えるかも知れない。ここで敢えて「かもしれない」と断言しないのは、基本的にピカレスクは、独白の自伝形式であることと、主人公が「愛」を持たないからだ。

 講談の形式というものを考えれば、読み手が主人公の感情や言動を表わすものであり、藪原検校の思いや行動は宝井梅湯の読みを通して表わされるものであることから、ピカレスクの条件は一つクリアされる。ポイントは藪原の「愛」という点である。作品を通して、そうしたものを強く感じたことはなかった。だが、だからと言って藪原は決してウェットな生き方をしているのではなく、人間的な姿を見せることがあり、そうした点を演者のさじ加減で描き出せば、『藪原検校』もまたピカレスクの一つに数えてもいいだろう。

 だが一方で、主人公が悪者であり、生きるために次々と罪を犯していく物語もまた「ピカレスク」の原則とするならば、その性格の多くは出生に因縁があり、社会の中でずる賢く生きる「小悪党」であるが故に、時に滑稽な様子も見せるのが特徴となる。

 『藪原検校』における主人公の二代目藪原はとにかくタチが悪い。平気で人を危め、人の人生を大きく変えてしまう。いわば社会的嫌者とも言える存在であるが、どこか人間味を感じるのは、普通の人が普通に過ごしていれば、踏み入れることを許されない世界を、藪原が代わりに生きてみせるからであり、更にそうした様子を演者宝井梅湯が語りで描き出してくれるからでもある。梅湯さんの語りは堅固に見えて、実は話の世界を見渡せる力を持ち、サラリとしたユーモアさを持ち合わせている。

 つまり藪原の人間味は演者の描き出す人間味であり、この『藪原検校』という作品は繰り返しになるが、“宝井梅湯的ピカレスク作品”であると思えてならない。この作品に魅力を与えるのは、演者宝井梅湯の物語に対する熱量であって、言うならば、これまで演じ手がいなかった『藪原検校』という作品を通して、宝井梅湯という演じ手が新たな形の講談ピカレスクを生み出したことにあると言える。梅湯版藪原の世界は面白い。

 今回、そうした話を連続読みで口演をしてもらい、大団円を迎えることができたのは喜ばしく、意義深い公演であり、口演であったことは間違いない。時を置いて、宝井梅湯の『藪原検校』をまた聴いてみたい。(雅)

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