講談最前線(補)~これからの講釈師・神田伊織

 先日(2022.01.16)、墨亭ではじめて前座だけの会を開催した。いわゆる前座勉強会というものである。

 以前より、前座の誰かの何らかしらの会を開催できないかと考えてはいたのだが、それこそよく寄席などでも聴かれるように、“前座は修業中の身であるから、自分の会を持つべきではない”、”前座は料金以外である”というセリフが頭にあったこともあり、そうした意見をぶち破れる人がいなかった。

 そんなこんなで、以前から釈場で注目をしていた神田伊織さんが、2022年9月に二ツ目に昇進するということを耳にしたので、実は少し前からそんな話はしていたのだが、正式に「二ツ目に向けての会を開きませんか?」と声をかけたところ、すぐに色よい返事があった。

 正直言って、前座であれば誰でもいいという訳ではない。この人を!という人しか推せないので(それは墨亭全体のスタンスでもある)、伊織さんなら命を賭しても……、いや、それはさすがに大袈裟だが(笑)、大切にしている墨亭という高座の下駄を預けてもいいと思ったのだ。もし、師匠が首を傾けるようであれば、全力で説得にあたる覚悟も出来ていた。

 そんな惚れ込んでいる最近の伊織さんの高座には、「色」が出てきた。先日、講談協会の定席で、前座話の定番とも言える『三方ヶ原軍記』を聴いたが、前座に課されるべき、声を張って、物語を淡々と読み進めるという基本姿勢で高座に臨むばかりでなく、決して聴き手に文字の羅列を提示するような読みばかりではなく、軍談物と言うと、正直言って難しい面もあるのであるが、伊織さんの読みを聴いていると、その場面が絵面として見えてくるように聴かせてくれたのが強く印象に残った。

 そうなれば人間の欲はとどまることがなくなって来る。伊織さんの他の演目を聴いてみたい! そんなことを難解な(?)『三方ヶ原』を聴きながらも思わせてしまう、読みとしての「幅」、つまり聴き手に、いい意味での聴いていての余裕を感じさせる腕を持ってきたのにも、更なる興味を覚えた訳だ。

 同じ日の高座では、師匠である神田香織先生が「二ツ目になるのに6年かかってしまいましたが、本人はそれだけ勉強ができると腐らないでいたのに感心した」という話をしていたが、いよいよ二ツ目という新しい花が開く前の高座と話には期待をしているし、墨亭でよければ、ぜひとも大いに勉強していってもらいたいと思ったのである。

 その第一回では『恋の彫り物』『関ケ原七本槍』『並木路子』の三席を読んだ。『恋の彫り物』は講談ばかりでなく、落語でも知られる浜野矩随とはまた違った角度から迫った話。伊織さんの実力を知ってしまえば、そんな世話物なんて……という思いもよそに、40分強の時間を飽きさせない話の世界に浸からせる高座として。『関ケ原七本槍』は一転しての軍談物。前座が大切にし、これからの講釈師としての財産にもなる演目を真正面から正々堂々と。

 そしてこの会が終わった時に、「ああ、今日のこの会を開いて良かったなあ」と思わせたのが、トリネタの『並木路子』。日本の戦後のヒット曲の第1号となった『リンゴの唄』を唄った並木路子の半生に迫った作品で、主役たる人物の喜怒哀楽を決してその感情に左右されることなく、何故その時にそういう状況に置かれ、並木路子が前に進むことができたのかといった点で、人物伝を牽引し続けることができた。こうした読み物が確かに読めれば、講釈師としては間違いがないと思っている。

 次回は3/27(日)に開催する予定だが、客席でアンケートを取り、何と『太平記』を読むことになった。講談の起こりは「太平記読み」にあり。長年、講談を聴いているつもりであるが、『太平記』を連続で読む!のに出会ったことがない。明治期に松林伯知が速記を残しているが、そこから起こすのか。どんな『太平記』を聴かせてくれるのかが楽しみでならない。

 個人的には、仏文学科卒の伊織さんによる『レ・ミゼラブル』を長講連続でも聴いてみたい。大師匠にあたる二代目神田山陽や、今も山陽一門が端物で読んでいるが、原作に則った講談で読むとしたら、どんな作品になるのか。その他にも、まだまだ読みたい作品があるらしいので、神田伊織のこれからに注目していきたいと思っている。(雅)

0コメント

  • 1000 / 1000