講談最前線(補)~神田織音の講談を聴くということ

今、講談を聴くということ。そして、神田織音の講談を聴くということ。織音講談の意義……などというと堅苦しいかも知れませんが、そんなことを感じ取ってもらえればと思います。簡単な文章ではありますが、以下、前回3/19の「神田織音の会」のパンフレットからです(一部改訂)。墨亭では6/3(土)「神田織音の会」11時開演を開催いたします!


今の世にあって、男性と女性を分けるのはおかしなこととは承知しているが、今日の主役・神田織音先生が、これからの女性講談師を牽引してくべき存在であることは、拙著『講談最前線』(彩流社)で記した通りだ。

これはお世辞でもなんでもない。男性と女性を分けることがおかしなことになっている時代だからこそ、そうしたことを強く思ってしまう。

伝統芸能の世界にあって、一時期見られたような、女性講釈師が演じるべき演目が確固としてあった時代から、いわば女性が男性主役の話を演じても違和感(という表現もなんだが……)がない講釈を読むべき時代が来ている中、神田織音の「読み」が基軸になるはずだからだ。

例えば、講談では久々に聴く、連続物の『塩原多助』では、多助の父・塩原角右衛門とその妻を声色で描き分けるのではなく、その人物に漂う風(ふう)であったり、そこから自然と表われる言動で描き、同じ連続物の『柳生旅日記』でも、柳生十兵衛をはじめとした剣客や市井の人々を同じように読み分ける力を持つ。

勿論、そうした読みは世話物や新作にも見られ、恐らく以前に見られた講釈の姿に近い読みこそが、神田織音の魅力であり、今後の講談界に必要になってくると思うのだ。


さて、今回はどんな話を読んでみせてくれるのか。楽しみにしている次第です。(雅)

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